ゴー宣DOJO

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トッキー
2017.10.26 02:13

「もしも東浩紀がカップ焼きそばの作り方を書いたら」

昨日ご紹介した門弟メーリングリストの
「もしも三浦瑠麗が
カップ焼きそばの作り方を書いたら」
が好評で、第2弾が届きました!



 主張されている事を別の事柄にトレース
すると、ご本人の本音が透けて
見えてくるようで面白いですね。
 勢いついでに、
「もしも東浩紀がカップ焼きそばの
 作り方を書いたら」

 ぼくは今回、カップ焼そばを作るという
この不毛な劇場=お祭りに対して
「積極的棄権」を提唱していた。
 棄権という行為それ自体を、消費者に
よる「カップ焼そばそのものへの否」の
意思表示として積極的に捉えようとしたのだ。
 その結果、ネットでも5千人を超える
署名を集めることができた。

 棄権という行為が飽食の時代を生きる
人間の傲慢さであると捉えられることは
わかっている。
 ただこのひと月で混乱するほどに増えた
カップ焼きそばの選択以前に、そもそも
このカップ焼そばという「ルール」、
それ自体が大きな歪みを抱えている
ように思われたからである。

 ここでのルールとは「お湯を注ぐ前に
かやくを入れないといけない」という
ことではない。カップ焼きそばを作る
という行為に対しての政治状況、作り方
を伝えるメディア環境のすべてを指す。
 味の全てを決めてしまうソースという存在、
あらかじめ入れる手順の決まった小袋、
プラスチックカップという器に支配された麺、
それらが組み合わさり生み出された現在の
カップ焼そばの「ルール」は、袋麺派の
立場にきわめて厳しいものになっている。
 生麺タイプでもカップでもない、
フライパンを使ってフライ麺を柔らかく
戻したいと訴える人々の勢力は、
売り上げというポピュリズムに
のみ込まれ消える運命にある。
 実際今回、袋入りソース焼きそばは、
売り上げ首位の夢に惑わされ、
あっというまに自壊してしまった。
 今はまるで生麺のような袋入り
ソース焼きそばの伸長が伝えられるが、
それも近い将来同じ困難に直面するだろう。

 じつはこれは日本だけの傾向ではない。
世界どこでも、極端な焼きそばが勝利し、
袋入りソース焼きそばは消える傾向にある。
 カップ焼きそばが生まれたときには
カレー焼きそばも塩焼きそばも存在
しなかった。カップ焼きそばの世界は
いま、新しい味との接触で、
中道の袋入りソース焼きそばを排除する
「お祭り」の装置へ急速に変質しつつ
あるのだ。ぼくたちは、一歩立ち止まり、
この状況そのものへ反省を向ける必要がある。

 本当に深刻な危機は、カップ焼そばを
作るというこの不毛な劇場=お祭りの
反復にある。ぼくたちは、いつかこの
サイクルを抜け出せるのだろうか。

 ~了~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 なんとなく書いていて思うのは、
三浦さんも東さんも物事に対して
真正面から向き合うということをダサいと
思っているんじゃないかなと感じました
(二人ともどう考えてもカップ焼きそば
自体を作らないというオチになってしまう)。
 知識が増えるほど、やっぱり世の中は
悪人が幅を利かせていたり、目先の利益が
人を狂わせているという現状を知ったりして、
真面目に生きることをバカバカしく
思えたりするのかもしれませんが、
そこからが本当のスタートのはずだと
思うのは上から目線というものでしょうか。
熱湯で火傷をしようが、湯切りの時に誤って
麺ごとシンクに流してしまおうが、
それでもやっぱり目の前にカップ焼そばが
ある限りは作らないと始まらない
のでありますよ、なんて。




何事にも真正面から向き合わない、
何も真面目にやらずに生きるのが一番利口、
なんてことを結論にするのなら、
一体何のためにいっぱい知識仕入れて
お勉強してきたんだろうと思いますね。
それだったらお勉強自体しなきゃいいのに、
これこそダサイ! カッコ悪い!
と思ってしまいます。

今日放送された、
よしりん先生も取材を受けた
「そもそも総研」では、
今後、
専守防衛など元来の日本国憲法の
理念を実現するための改憲案が
リベラルの側から出て来るのではないか
との結論になっていましたが、
もしそうなれば、このデタラメな選挙を
やったおかげということにもなるわけで、
やっぱり世の中、やってみなけりゃ
わからない、
瓢箪から駒が出ることも
あるわけです。

でも、こういうことが、
リスクを取ることを何より恐れる
学校秀才には決して理解できないん
だろうなあ
と思ったりもします。
トッキー

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